小説:恋ハナクトモ #1「落雷」
(テルちゃん、テルちゃん、起きて…。ああ、夏織、久しぶりだね…)
10月になってもほの温かい日が続いていたある朝、上園輝親は、微睡みの中で幸せを感じていた。肩越しに感じるほのかな体温と優しい匂い。久しぶりに隣に人の気配を感じ、うとうととその温もりを満喫していた。
(ああ…恋しかった…夏織との朝…この甘い…甘い香り…? ん? …んん?)
違和感にバチっと電源が入った。匂いが違う。少し前に別れた夏織のフローラルな香りとは違う、もっと甘い何か…独特の…と考えながら隣を振り返った。そこにいたのは、女性というより、小さな……赤ん坊だった。
(なぜここに、赤ん坊が? 一人暮らしの男の部屋に、どうやって?)
頭の中が一気にぐるぐるした。身体はのけぞったまま、固まっていた。
「きみは誰?!」
落ち着け。とにかく一度、落ち着こう。3週間ほど前に夏織に別れを告げられてから、心当たりのなかった俺は、落ち込んだ。30代になってから順風満帆だった仕事にまで不調は現れ、このところのプレゼンは立て続けの8戦7敗の記録を打ち立てていた。昨日もフォローしてもらった先輩に誘われるまま飲みに行き…最初は叱られていた。それは覚えてるが、結構凹んでいて、酔いがまわった後半は、すっかり記憶が飛んでいる。
ジタバタしていて、ふとベッドの反対側に降り立った。そして、足元に大きなカゴ状のバッグが置いてあるのに気がついた。赤ちゃんグッズの上に柔らかそうな布…と、その上には、ひとことだけの一筆箋。
「…あなたの子です? …え?なにぃ~?! 」
自分の呟いた言葉に反応して、しばらく出したこともないような大声が出ていた。
「あなたの子って?あなたの子って?どういうこと?
俺の子ってこと? 俺? 俺、きみのお父さん?? ええっ?! 」
「ふえ…ふえ…」
大声に驚いた赤ん坊が泣き出しそうになった。
「待って待って! ダメダメ、泣かないでよ…」
慌ててタオルケットごと包むようにして、ベッドの上で揺すった。
心当たりは、…言われてみれば、全くないことはなかった。
生後3ヶ月…がどのくらいかはよくわからないが、この赤ん坊がそのくらいだとすると、1年から1年半くらい前にそういうことがあった女性なら、実は、夏織を含めて3人、思い当たる。もちろん、夏織以外は1度だけ、…いや2人のうち片方は何度かデートしたことがあったか。振られても仕方のない原因があったことに、やっと思い至った。夏織は気づいていたってこと?
必死で赤ん坊をあやしながら、頭はぐるぐるが止まらない。そして、何も思いつかない。
(そうだ、警察だ! 捨て子だろ)
ものすごい名案を思いついた! と思った。が、しかし…
(待てよ? 捨て子って…?)
「どこに捨てられていたんですか?」
「うちのベッドに一緒に寝てました!」
「あなたの子って書いてありますが」
「はい、衣類やおむつ、ミルクの準備もあります、助かりますよね?」
1人ノリツッコミのような脳内小芝居を繰り広げて…絶望に落ちた。これでは捨て子の届けではなく、まさに自分が子どもを捨てる瞬間だ。
とりあえず何かヒントを…と、スマホを持ち上げ、出勤時間が迫っていたことに気がついた。赤ん坊の機嫌が少しおさまったのを見計らって、慌てて会社に電話をする。
「すみません、営業2部の上園です。あの、なんだか熱っぽくて、病院寄って午後から出社したいんですが…。はい、あ…はい、大丈夫です。よろしくお願いします」
人と会話したせいか、さりげなく嘘がつけたからか、電話を切ったら、少し落ち着いていた。子どもを拾ったら、やっぱり警察なんだよな?? でもその前にこの子が本当に自分の子なのか? 母親は誰なのか? そういうことをハッキリさせなくていいのか? 母親がわかればこの子がなぜここにいるのか理由もわかるだろうし、だいたい本当に俺の子だとしたら、そんなに簡単に捨てるなんて発想できるわけがないだろう? パニクっていたとはいえ、さっきまでの無責任な自分を思い返すと、昨日軋み出した床がまた3センチほど、沈んだ気がした。なんとなく憂鬱な気分で、赤ん坊と並んで、ゴロンと横になった。
天井のシミが誰かの見下ろす眼に見えた。