ニッポンを知る。九州 ・熊本編 ~室町時代から続く山鹿灯籠 ~
和紙と糊の芸術 灯籠師:田中久美子さん
「よへほ、よへほ♪」
夏の宵、頭上に灯籠を載せた浴衣姿の女性たちが優雅に舞う「千人灯籠踊り」は幻想的な美しさ。
毎年8月15、16日に行われる「山鹿灯籠祭り」のフィナーレを飾る、山鹿(熊本県)の夏の風物詩となっている。女性たちが頭に頂く「金灯籠」は、精巧な金細工のように見えるが、実は手漉き和紙と少量の糊のみで組み上げられているというから驚きだ。
遡ること約600年、室町時代に金灯籠から始まったといわれる山鹿灯籠。その作り手は灯籠師と呼ばれ、一人前になるまでに10年はかかるという。
山鹿市では、現在、伝統を受け継ぐ8人の灯籠師が活躍中だ。
山鹿灯籠を手がけて20年、山鹿灯籠師組合長を務める灯籠師・田中久美子さんにお話を聞いた。
金灯籠に始まり、金灯籠に終わる
「実は、私が灯籠師を目指したのは40歳を過ぎてからなんですよ」
という田中さんは、地元の企業に長く務めた後、心機一転、山鹿市主催の灯籠教室で制作を始めるが、やがて、それでは飽き足らなくなり、故・中島清灯籠師に師事。10年の修行を経て、平成25年に灯籠師となった。現在、山鹿灯籠工芸館内の工房で実演や案内、制作体験の指導に当たるほか、後継者となる弟子を育てている。
「弟子をとるなんてまだ早いと思ったんですが、教えることで私自身が学ぶことも多いと思い、お受けすることにしました」
ところで、灯籠師の修行とは、どんなことをするのだろう?
「まずは、金灯籠から。灯籠作りは『金灯籠に始まり、金灯籠に終わる』といわれます。約200ものパーツから成る金灯籠には、座敷造りなどの複雑な建造物を組み上げるときの基本的な技法が全て含まれているんですよ」
山鹿灯籠の鉄則
山鹿灯籠は、元々、灯籠祭りの際、大宮神社に奉納するために作られてきたもの。その後、藩主への献上品として観光資源として、技の競い合いが盛んになり、今のように高度な工芸品へと磨き抜かれていった。
最盛期は江戸時代後期、文化・文政の頃。当時の奉納灯籠の数が95基という文献が残っている。現在の奉納灯籠は27基ほどだというから、その盛況ぶりがうかがえよう。
山鹿灯籠工芸館には、宮造りや座敷造り、鳥籠といった伝統的な灯籠が陳列されており、その超絶技巧を間近で見ることができる。作品は実に多彩だが、その作り方には一貫した鉄則がある。
1.木や金具は一切使わず、手漉き和紙と少量の糊のみで組み上げる。
2.柱や障子の枠に至るまで空洞になっている。
3.独自の寸法で作られており、単なるミニチュアではない。
田中さんが、制作中の小さなパーツを見せながら、教えてくれた。
「例えば、この神社の障子を見てください。実際の比率より縦長になっているでしょう? 単純な縮尺だと、コンパクトに見えてしまって、本物の建物を目にした時のスケール感が伝わってこない。実際の神社を見ているような威圧感を再現する。比率を工夫することでどっしりとした存在感を出すわけです」
ちょっぴりマニアな山鹿灯籠の見かた
奉納灯籠の細工はどれも素晴らしく、ただただ感心するばかりだが『ここがわかると、もっとおもしろい』という、鑑賞のポイントはあるのだろうか?
「そうですねぇ」と田中さんは少し考えてから宮造りの灯籠の一部を指差した。
「神社などの柱の外側に突き出した部分を木鼻(きばな)というのですが、灯籠のここに注目してみてください。現役の8人の灯籠師はみんな、中島清さん、徳永正弘さんのいずれかの直弟子に当たり、その流れを引いています。そのどちらの流れに属するかを見分ける場所が、この木鼻なんです。ワニの口みたいになっているのが中島流、千鳥のクチバシみたいにちょっと下向きになっているのが徳永流ですよ」
なるほど。なかなかツウな見どころである。
「山鹿灯籠は分業制ではないので、下仕事から仕上げまで全てを自分の手で仕上げます。特に奉納灯籠などは300時間以上もかけて組み上げますから、完成の喜びはひとしお。そこが灯籠作りの魅力でしょうか」
笑顔で語る田中さんは、さらに言葉を続けた。
「その一方で、私自身まだまだ満足のいく灯籠は作れていないと思っています。若手が台頭してきてからは特に負けられない、無言の切磋琢磨があります。灯籠師としては自分自身に厳しく技を磨いていくこと。山鹿灯籠師組合長としては灯籠師の数を減らさないように、技術を継承していくことに努めたいと思っています」
田中さんの手はたゆみなく小さな障子を作り続ける。いくつもいくつも…。そして、これらの小さなパーツを下から順に着実に積み上げていくことで精巧な奉納灯籠が完成する。600年前から続くその技術の蓄積が今につながり、さらに次の時代へと受け継がれていくように。