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民俗学は無限大!第13章「日本の絆文化 置き薬」

日本のくすりの起源は縄文時代

突然だがクイズである。

アジサイ、ヒマワリ、タマネギ、カボチャ、ハッカク、シナモン、ウイキョウ——。

さて、これらに共通することはズバリなに?

後半でピンときた方もいるかもしれない。そう。答えは、くすりになる植物、つまり「薬用植物」である。アジサイやヒマワリ、タマネギ、カボチャといった顔ぶれはちょっと意外ではないだろうか?

実は私たちの身の回りにある植物、その数7000種以上は、すべてなんらかの薬効を持っているという。先人たちは自然界にあるそれら植物をはじめ、一部の動物や鉱物などが病や痛み、傷を癒してくれることを経験的に見出していたようだ。

縄文時代の居住跡から現在も生薬として使われているキハダの樹皮(オウバク)が発見されており、くすりの歴史は人類の歴史とともに歩んできたといえる。もちろん、これは日本に限ったことではない。紀元前4000年ごろのメソポタミアではシュメール人が粘土板に薬用として多くの植物の名を記し、紀元前400~300年ごろに中国で変遷された『山海経』には薬効をもつ植物や鉱物についての記載がみられる。

ということで今回のテーマは、1万年以上もの歴史をもつ「くすり」である。なかでも、日本ならではの「置き薬(配置薬)」に焦点を当てたいと思う。

仏教とくすりの深いカンケイ

まずは、日本におけるくすりの歴史についてみてみよう。

先述の通り、くすりの原点は縄文時代にみられるが、本格的なものが広まったのは仏教が伝わった6世紀ごろから。日本にやってきた仏教僧の多くはくすりや医学に精通しており、なかでも日本への渡航に5度も失敗しながらも753年に来日した唐の僧侶・鑑真は日本の医療進歩に大きく貢献したといわれている。

目が不自由であったものの、匂いでくすりを鑑別でき、聖武天皇の夫人の病を治したという逸話も残る。なお、その時のくすりの一部は、奈良の正倉院に今も保管されているそうだ。その後、鎌倉時代以降も大陸との交流が盛んに行われ、医療技術や薬物書なども多く輸入された。窮民救済として療病院や施薬院を設ける寺院もあり、東大寺の「奇応丸」、西大寺の「豊心丹」、平泉寺の「丸薬」などが生まれたという。

室町時代にはキリスト教とともに「南蛮外科」が伝来。刀や鉄砲などによる外傷に、ヤシ油やポルトガル油(オリーブオイル)、マンテイカ(ラード)などが活用された。また、戦国時代の武将・織田信長はポルトガル宣教師のすすめで伊吹山(岐阜県と滋賀県の県境)に薬草園を造らせ、西洋の薬草3000種を栽培していたといわれている。その実録は発見されていないのだが、ヨーロッパ原産の植物が日本では伊吹山のみに自生しているというから、薬草園があったことは真実である可能性が高い。

徳川家康は健康オタクだった!?

これまでみてきた時代のくすりは主に上流階級の世界の話で、庶民まで広く普及するようになったのは江戸時代になってからだ。初代将軍・徳川家康は医学書や薬学書を愛読し、自らくすりを調合・服用しており、幕府としてもくすりの生産を奨励し、その販売を支援した。ゆえに、薬種問屋や成薬店などが次々と登場し、くすりの普及、大衆化が一気に進んだという。

ちなみに、ガルニア世代の皆さんならご記憶にあるであろう、ドラマ『水戸黄門』。「ひかえおろう。この紋所が目に入らぬか~」という名ゼリフとともに取り出す三つ葉葵の印籠は、実はくすり入れ。黄門様こと、水戸藩主・光圀公に限らず、江戸時代の武士たちはくすりを持ち歩くケースとして印籠を使っていた。また、光圀公は元禄6年(1693)に藩医に作らせた『救民妙薬』を出版。これは身近な薬草の利用法や健康法をまとめた庶民に向けのくすりの本で、大正時代まで続くベストセラーになった。

なお、当時の医者は薬種問屋から生薬を購入し、百味箪笥(ひゃくみだんす)といわれる棚に保管。患者の症状にあわせて調合・処方していたが、かぜ薬として知られる葛根湯や慢性肝炎の治療薬である小柴胡湯など、現代でも漢方薬として使われるくすりも数多い。

江戸時代の富山で誕生した置き薬

さて、ここで本題の置き薬(配置薬)である。置き薬とは、薬商人が家庭に薬箱を置いて回り、次に訪問したときに使用した分の代金をもらうというシステムのことで、「配置販売業」として現代に受け継がれている。どんな人間の住む家かわからないのに商品を預けるのは商売として危険なように思えるが、「病を治すのが先で利は後でよい」を意味する「先用後利」という日本人らしい思想から生まれたという。

発祥は、江戸時代の富山。元禄3年(1690)、富山2代目藩主・前田正甫が江戸城に登城した際、陸奥国の三春藩主が腹痛を起こし、正甫が印籠に入れていたくすりを飲ませたところ、たちまち平癒。それを目の当たりにした諸国の藩主たちはその薬効に驚き、領内でそのくすりを売り広めてくれと依頼。そこで正甫は、領地から出て全国どこでも商売ができる『他領地商売勝手』を発布。同時に富山城下の薬種屋・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六という商人に諸国を行商させた。

源六は正甫の「先用後利」の精神に従い、置き薬販売をはじめたという。必ず売れるという保証がないなか重い荷物を背負って長い道のりを歩いて回るなんて途方もない苦労である。行商人の多くは真宗信者であり、小さな仏様を懐に入れていたというのも頷ける。

ちなみに、置き薬が生まれるきっかけとなり、富山を一躍有名にしたくすりの名は「反魂丹(はんごんたん)」。現在も富山を代表する胃痛や腹痛の妙薬である。

甲賀忍者が育んだ滋賀のくすり文化

置き薬はなにも富山に限った話ではない。滋賀には忍者と深い関わりをもつ甲賀売薬がある。

延宝4年(1676)に著された忍術書『万川集海』には、忍者が薬草を育て、常備薬や忍薬を処方していたことが記されている。そのなかには、飲めば水の代わりになったり、飢えがしのげたり、はたまた敵を眠らせたり、痴呆状態に陥れたりするものもあるというからオモシロイ。なお、忍者は町人や商人になりすまし、独自に開発したくすりを売り歩いて生計を立てていたといわれている。

また、滋賀には甲賀売薬とともに日野売薬もある。日野売薬といえば、正徳4年(1714)に日野売薬の創始者・正野玄三がつくりだした「万病感応丸」だ。日野商人が全国で売り歩き、評判を得たことから、日野では万病感応丸を製造する者が増え、100軒以上の薬屋があったという。滋賀の配置売薬は明治、大正と発展を遂げ、富山、奈良と並ぶ一大産業になった。

なんにでも効く⁉️奈良の「陀羅尼助」

今、さらりと流したが、奈良も日本三大売薬県に数えられる。奈良のくすりといえば、日本最古の売薬といわれる「陀羅尼助(だらにすけ)」である。飛鳥時代から伝承される民間薬であり、元々は山伏修験道の開祖・役行者がつくった仙薬だと伝えられている。

山伏たちによって日本各地に広まったとされ、「だらすけは 腹よりはまず 顔にきき」と天保時代の川柳に詠まれるほど一般的だったようだ。これは、陀羅尼助は“はらいた”の妙薬であるものの、とても苦いことから飲むと顔が歪むことをおもしろく詠んだものだ。

陀羅尼助は「なんにでも効く、はらいたの薬」としていまでも関西圏では重宝されているが、九州に住む筆者にとっても常備薬である。奈良の吉野に行った際、地元の人の「お酒を呑む前と後にのむと、二日酔いしないよ」という言葉に惹かれ購入。暗示かもしれぬが、めちゃくちゃ効いている気がして手放せない。

さて、日本三大売薬県をざっと紹介したが、お気づきの通り、各県には長い歴史をもつご当地薬が存在する。日本三大売薬県ならではのちょっと変わった、くすりの資料館的なモノも存在する。ぜひ現地に足を運んで、地域性あるくすり文化を楽しんでいただきたい。