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ニッポンを知る旅・九州 鹿児島編~蒲生麓を歩く

薩摩藩の4人に1人は武士だった!

みなさん、ご存知だろうか?

薩摩藩は他藩に比べて武士の割合が高く、なんと4人に1人は武士だったとか。そのため、本城である鶴丸(鹿児島)城下に全員を集住させることができず、領内に武士を分散させて住まわせる「外城(とじょう)制度」という独自の体制がとられた。各地に点在する旧城跡の山麓などに「麓」と呼ばれる武家屋敷群が作られ、そこで暮らす武士たちに藩全体の防御を担わせたのだ。江戸時代末期には100を超える麓があったという。

鹿児島県姶良市霧島錦江湾国立公園 重富海岸より

数ある麓の中でも、今なお美しく機能的な町割を残しているのが「蒲生麓(かもうふもと)」(鹿児島県姶良市)。ここは、二つの川に挟まれた地理的な特徴を生かして川を天然の外堀として活用し、作られた武士集落だ。ボランティアガイドの指宿(いぶすき)さんに案内していただいた。

薩摩武士の末裔が守る武家屋敷通り

車の多い大通りから少し入ると、さながら江戸時代にタイムスリップしたかのような町並みが現れた。石畳の道沿いに切石の石垣と整然と整えられた生垣が続き、立派な門構えの家々が建ち並んでいる。

ボランティアガイドの指宿さんと歩く筆者

「ここが蒲生麓の武家屋敷通りです。御仮屋門(おかりやもん)を中心に多くの武家門と石垣が江戸時代から変わらない姿で残されていて、今も末裔の方々が実際にお住まいになっているんですよ」

その秩序だった静謐な佇まいに、思わず背筋が伸びる思いがする。

蒲生御仮屋門は、文政9(1826)年に建てられた地頭仮屋の正門。反り瓦屋根の両脇には小屋根があり、前方に向かって袖が出ており、大扉や不浄門を備え、往時のままの姿を残す。蒲生に現存する武家門としては2番目に古く、鹿児島の有形文化財に指定されている。

蒲生御仮屋門

「蒲生武家屋敷のいちばんの特徴は『武家門』です。まず、十石以上の石高がないと武家門はつくれません。五十石未満だと引き分け戸の両脇に袖が付きます。

さらに百石以上になると観音開きの大扉や不浄門と呼ばれるくぐり戸を備えた立派なつくりになるのです。門には乳鋲(ちびょう)と呼ばれる大きな鋲が打ってあり、この裏側が閂(かんぬき)になっています。蒲生では武家門のつくりを見れば、その家の石高がわかるというわけですね」

門に打たれた乳鋲(ちびょう)と呼ばれる大きな鋲
裏側から見る閂(かんぬき)

石垣の上には、たいていイヌマキの生垣が設えてある。これによって屋敷の中からは外の様子がよく見える一方、外からは内側の様子が窺えない。さらにイヌマキの生垣は柔らかいため、外から侵入しようとしても足をかけて乗り越えることができないのだとか。

蒲生最古の有村家の武家門

知るほどに楽しさが増す、麓歩き

「見てください。隣り合う家の間の垣根が1mくらい開けてあるでしょう? これはいざという時に女子供をそこから逃がすためのものです」

「昔は女の子が生まれると、庭に桐やツゲの木を植えていました。嫁ぐときに箪笥や櫛を作るためなんですよ」

「こちらは築120年以上の武家屋敷をそのまま生かしたカフェになっています。中に入ってみると大黒柱を中心に“田の字”に分かれた昔の家の造りがよくわかります。通風と採光の役割を兼ね備えた『無双窓(むそうまど)』など、エアコンのない時代の先人の知恵を垣間見ることができるのも楽しいですよ」

「T字路の突き当たりには石敢当(せっかんとう)という魔除けがあるのも武家屋敷の特徴です。これは特に珍しい、梵字で書いてありますね」

「今、歩いているこの道が、昔のメイン道路です。祁答院(けどういん)から掛橋坂(かけはしざか)を通って島津に納める年貢米を運んでいたんですよ」

指宿さんの説明を聞きながらだと、麓歩きの楽しさは倍増する。

ピーヒョロロロ~。

はるか上空にトンビが舞う。しばらく歩くと蒲生川に行き当たった。

「ここは昔の船着場になります。明治10年8月31日、西郷隆盛が西南戦争に敗れて鹿児島へ戻るときもここから船に乗ったんです。そして、城山で最期を迎えるわけですよ。今、西郷さんと同じ道を歩いているかと思うと、なかなか感慨深いものがありますよね」

日本一の大楠に会いにいく

続いて向かったのは、蒲生八幡神社。保安4(1123)年、平安時代末期に蒲生氏の始祖・蒲生上総介舜清(かもうかずさのすけちかきよ)が創建したとされる由緒正しい神社は商工・学問・芸術・安産の神として親しまれている。

それよりはるかに昔から境内にそびえ立っていたのが、樹齢1500年以上と言われる御神木の大楠だ。高さ約30m、目通り(目の高さ=約1.2m)およそ24m。日本一の大楠として環境庁のお墨付き。国の特別天然記念物に指定されている。

「木の内部には畳8畳ほどの空洞があって、それはそのまま上へ16mくらい続いているそうです。これは鉄筋コンクリート5階建相当の高さです。樹木医さんによると、樹皮から30㎝ほど残っていれば木は生きられるのだそうです。凄い生命力ですね」

指宿さんが手招きする。

「ほら、こちらから木に触れることができますよ。1500年のパワーをいただきませんか」

「木は触られるのを嫌がりませんか?」と尋ねると、指宿さんは笑顔で言った。

「嫌がりませんよ。どうぞどうぞって言ってます。木はやさしいんです」

そっと手を触れてみると、大楠の圧倒的なエネルギーと、大らかでやさしい気配が流れ込んできた。

蒲生の発展を支えた有志の碑

「もう少しお時間があるなら、ご案内したいところがあるのですが…」

指宿さんの言葉に誘われて、境内の脇から続く小道を草を踏み分けながら登ると、突然、目の前が開けた。

そこには、関ヶ原の合戦に始まり、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争までの英霊を讃える記念碑群があった。国家の発展を願って命をかけた蒲生の有志の御霊を慰める目的で建立されたものだ。苔むした石碑から歴史の重みが感じられる。ここは、かの司馬遼太郎も訪れたのだとか。

眼下に蒲生の町が広がり、真正面に蒲生城址を臨むことができる。蒲生城は神社を建立した蒲生舜清によって築かれ、18代に渡ってこの地を治めた蒲生氏の居城だ。現在は城山公園として整備され、春には200本の桜が咲くという。

「こんにちは!」

蒲生八幡神社の石段を降りたところで元気な声をかけられた。神社のすぐそばの蒲生小学校の下校時間なのだろう。ランドセルを背負った元気な小学生たちと次々にすれ違った。

蒲生麓は、江戸時代から明治、さらに今に生きる人々へと脈々と繋がっている。その暮らしにしっかりと根ざしながら。

  • 蒲生武家屋敷通り:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2311
  • 蒲生八幡神社:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2259−1

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