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ニッポンを知る旅・北陸能美〜九谷焼の真髄〜 

九谷焼って説明できる?

九谷焼って名前は知っているけれど、どんな焼き物かと言われると…。

う~ん、なかなかひとことで表すのは難しい。緑・黄・紫・紺青・赤などで鮮やかに絵付けされたもの、繊細な線描きが施されたもの、豪華な金彩で彩られたものなど、その意匠があまりにもバラエティに富んでいるからだ。

それはなぜか?

KAM能美市九谷焼美術館」の施設長・佐久間 忍さんにお話を聞いた。

同施設は、九谷の歴史を学べる|五彩館|、|浅蔵五十吉記念館|、九谷焼陶芸体験ができる|体験館|、新進作家の活動を見学できる|職人工房|の4館からなる。

まずは、時代ごとの作品を鑑賞しながら、九谷焼の歴史を紐解いてみよう。

KAM能美市九谷焼美術館

九谷焼の誕生

九谷焼は、明暦元(1655)年、加賀国江沼郡九谷村(現・加賀市)で生まれたと言われる。この地は、三代加賀藩主・前田利常(利家の四男)が、三男の利治に分与した大聖寺藩(だいしょうじはん)の領地。この村の金山から陶石が発見されたのをきっかけに窯が開かれた。

藩命を受け、肥前有田で製陶を学んだ後藤才次郎によって加賀百万石の華麗な装飾性に影響された独特の磁器が生み出された。そのスタイルは、緑・黄・紫・紺青・赤の五つの色を用いて装飾していく「五彩手」と、鮮やかな緑色を印象的に配して全体を塗り込めていく「青手」に大別される。

《色絵花鳥図鉢》古九谷 17世紀 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵
《青手芭蕉図鉢》古九谷 17世紀 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵

前田家の文化育成政策の一環として生まれた、これら創始期の九谷焼は「古九谷(こくたに)」と呼ばれる。

館内には当時の床の間の設えが再現されている。床の間といえば、渋い土壁が定番だが、それは目にも鮮やかなコバルトブルーで彩られていた。

「加賀藩では大切なお客様をこのような“色壁”でお迎えしたのです。鼠色の空と雪に覆われる長い冬、色の乏しい時期に鮮やかな色合いでおもてなししようという文化です。こういった背景のもとに色鮮やかな古九谷は育まれてきたんですね。輪島塗(能登)や高岡銅器(富山)などの工芸品も同時期に加賀藩の領地で生まれ、この地に根付いていったんでしょう」

個性豊かな、再興九谷

ところが、この古九谷は半世紀にも満たないうちに突然、断絶する。その理由は諸説あるものの、今もって謎なのだとか。

その後、約100年の空白期間を経て、加賀藩によって九谷焼の窯に再び火が灯るのは文化4(1807)年のこと。京都から名工・青木木米を招いて開いた春日山窯を皮切りに、若杉村の庄屋・林八兵衛によって築かれた若杉窯、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門が開いた吉田屋窯などが次々と開窯。

《染付霊獣文皿》若杉窯 裏銘 角福 江戸後期~明治 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵
《色絵紫陽花瓜文角鉢》吉田屋窯 1824(文政7)~1831(天保2)年 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵

これを「再興九谷」と呼ぶ。

再興九谷は古九谷の技法を受け継ぎながらも、それぞれの窯の指導者によって、赤絵、青手、金襴手など様々な画風を確立していく。それらは、今日の九谷焼の源流となっている。

「ジャパンクタニ」世界へ

明治以降、前田家の後ろ盾を失った九谷焼は一時低迷するが、やがて海外へ活路を見出す。パリ、ロンドン、ウィーンなどの万博に出品し、外国への輸出を積極的に行っていったのだ。明治20年代には陶磁器の輸出高で全国一となり「ジャパンクタニ」と呼ばれて高い評価を得る。

当時のヨーロッパの貴族の城の一室を再現したという一角には、九谷焼の巨大な香炉や1m級の壺が展示されていた。先ほどの床の間に飾られた器とは、随分、佇まいが違う。

「当時のヨーロッパのシンメトリックな建築様式に合わせて、壺などはペアで焼かれるようになりました。実用としてではなく東洋的な美しさを醸す装飾品として、見た目のインパクトを狙った大ぶりで絢爛豪華な意匠を凝らしたものが多くなっています。

《赤絵金彩人物図大香炉》九谷北山堂 宮荘 一藤 製 1846(弘化3)~1919(大正8)年 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵

藩政期から明治へ、大名から海外の富裕層へ。時代が移りパトロンが変われば、そのニーズを的確に捉え、オーダーに応えていく。高品質なものを量産するために分業体制がとられ、商人・生地師・絵付け師などに分かれて効率を上げていきます。このことが、後にこの能美の地を産業九谷の産地として大きく発展させていったのです」

能美市で発展した産業九谷 

産業九谷としての能美の発展を語る上で忘れてはいけないのが、二人の名工、九谷庄三(くたに・しょうざ)と斎田伊三郎(さいだ・いさぶろう)だ。

江戸後期から明治期に活躍した九谷庄三は、自らの苗字として「九谷」を名乗り、今でいうところのブランディングをした人。庄三は、当時輸入されたばかりの洋絵の具をいち早く取り入れ『彩色金襴手』を完成させる。これが海外への貿易品として高く評価され、大量輸出されるようになった。庄三には300人もの弟子がいたと言われている。

《龍花卉文農耕図盤》九谷 庄三 1816(文化13)~1883(明治16)年 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵

また、幕末に生まれ、佐野窯の開祖と言われる伊三郎は、それまで、狭い土地で細々と農業を営んできた佐野村(現・佐野町)に窯を開いて村人たちを指導し「佐野赤絵」を創める。

《赤絵五羅漢図鉢》斎田 道開 1811(文政8)~1875(明治8)年 KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|保管 陶祖神社(能美市佐野町)蔵

「道を開いたということで、その死後、弟子たちから『道開』と諡(おくりな)され、陶祖神社に祀られました。神様になった方ですね。私が小学生の頃は佐野町の人口の4割くらいは九谷焼の仕事に関わっていて、日常的にものづくりを目にするようなエリアでしたよ」と佐久間さんは語る。

時代に合わせる柔軟性

続いて、現代の作家の作品を見る。

最先端で活躍する作り手たちの作品は、九谷焼と呼ぶには違和感を覚えるほどに大胆かつ前衛的だ。

「彼らは九谷の技法や技術を学びましたが、表現として出てきたものは、これまでの九谷の様式のなかにハマるものではない。もはや器というより、現代アートの領域にあるのではないでしょうか。

九谷焼は、技術を継承しながらも時代に応じて加飾意匠を変革させていく。その時代に合ったものをつくるということが唯一変わらない。変化するという柔軟性を持っているのが九谷焼なんです。

だから100年後には、これが、この時代の九谷焼というふうに認知されていくのではないでしょうか」

受け継がれるもの

「九谷焼の素地は有田のように抜けるような白さではなく、灰色がかっていて決して美しくはないんです。だから、それを補うために全面に絵を描いたり、色を施したりといった装飾が発達したのです」という佐久間さんの言葉どおり、九谷焼には実に様々な装飾技法がある。

九谷焼資料映像 加飾 KAM能美市九谷焼美術館

色絵、赤絵、細描、金襴手、花詰、いっちん(注)…。

マイナスをプラスに転換する様々な手法、たくましさ、時代に合わせる柔軟性、常識を覆す大胆さ。

その時代の空気を映し出す多様な作風のそれぞれに、九谷焼の真髄が息づいている。

(注)いっちん:薄めた磁気土をケーキの生クリームのように絞りだして描く技法。

  • 施設名:KAM能美市九谷焼美術館(│五彩館││浅蔵五十吉記念館││体験館││職人工房│で構成)
  • 住所:石川県能美市泉台町南56
  • 開館時間: 9:00~17:00 (│五彩館││浅蔵五十吉記念館│は16:30まで/│体験館│は16:00まで)
  • 休館日:月曜(月曜が祝日の場合は翌日休館)、12/29~1/3、臨時休館あり
  • 入館料:「│五彩館││浅蔵五十吉記念館│共通入館券」一般430円(団体20名以上370円)、75歳以上320円、高校生以下 無料 
  • 問い合わせ:0761-58-6100
  • URL: http://www.kutaniyaki.or.jp

ニッポンを知る旅・北陸能美〜九谷焼の可能性〜